TVKテレビの新車情報を斬る!

三本さんと三清さんの新車情報が大好きで長年メルマガを発行していた筆者のブログ

20世紀の国産車・前編 Vol.101 (2000/9/7)

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TVKテレビの 「新車情報2000」を斬る!』
         Vol.101 (2000/9/7) 毎週発行
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★9月4日放映
【20世紀の国産車・前編】

国立科学博物館にて「20世紀の国産車」という特別企画展が6月4日まで開催されていました。

それに三本さんが取材へ行かれた模様から、前編では戦前における国産車誕生の変遷を見ていきます。主に解説は、国立科学博物館の主任研究官の方がしてくれました。

日本にはじめて自動車がお目見えしたのは1898年(明治31年)、フランスから輸入されたパナール・ルヴァッソールというクルマだったとされています。
http://www.kahaku.go.jp/special/past/car/nihonjinto.html

ダイムラーベンツの三輪車が走り出したのは、それから少し前の1885年頃だったので、日本人がクルマと接したのはそれほど遅れていなかったと言えます。

明治から大正のはじめにかけて、自動車の動力源は「電気」と「蒸気」と「エンジン」が混在する模索の時代でした。「まるで現在みたいだ」と三本さん。

1902年(明治35年)東京の芝口に「米国ロコモビル会社日本代理店」が開かれ、日本で最初の自動車を扱う店が誕生します。ここで最初に輸入・販売されたクルマは蒸気自動車でした。

ディーラーができたといっても、当時のクルマは超高価な代物で保有できるのはスーパーリッチな貴族や資産家に限られました。価格は5~6千円。現代にその価値を換算するとウン億円というまさにドリームカー。

明治の末期、日本にあるクルマを全部あわせても100台~200台だったと推測されているそうです。つまり当時のクルマは実用からは程遠い存在であり、イキのいい馬車のほうがよっぽど実用的だったとか。

そんな自動車後進国ニッポンで、国産車誕生の布石となる一つのイベントがありました。1903年(明治36年)に開催された「第5回・国内勧業博覧会」。

この博覧会で当時日本に輸入されていた貴重なクルマ達が展示されます。会場内を走行するデモを行なったりして、その姿をたくさんの人達が目にしたのでした。現代のモーターショウの先駈けといえます。

その後、輸入車を元に日本向けにアレンジしたクルマが登場します。
1904年(明治37年)「山羽式蒸気自動車」。
1907年(明治40年)「国産吉田式タクリー号」。
1914年(大正3年)「旭号自動車」など。

国産車第一号となる「オートモ号」を誕生させる白楊社(はくようしゃ)は、豊川順彌により1912年(大正元年)に設立されます。

豊川順彌の親父さんは三菱の総支配人で、三菱の資金を国産車づくりにつぎ込みます。ここで「三菱」という文字を目にする歴史に、現代の三菱自工の方々にはぜひ襟を正し、クルマづくりの原点に立ち返ってほしいです。

すべてはここからはじまった、日本人による日本人のため国産車「オートモ号」は、1925年(大正14年)に登場します。
http://www.kahaku.go.jp/special/past/car/otomo.html

専用の工作機械から鋳物まですべて自分達でつくらないとならなかったそうですが、「オートモ号」の基本スペックは、空冷直列4気筒OHVエンジン、943cc、9hp、重量は450kgでした。価格は2千円程度と、輸入車くらべて半分以下という競争力のある商品だったようです。その年には中国・上海へも輸出され、当然、国産車輸出第一号となります。

そして注目すべき出来事は同年(1925年)、東京・州崎で行われたレースに早くも参戦し、輸入車の強豪たちを押えて堂々2位という好成績をおさめます。

このとき優勝したクルマが知る人ぞ知る「カーチス号」。このカーチス号には本田技研創始者本田宗一郎が助手として乗っていました。

国産車が外国のクルマに勝つ」。

2位のオートモ号は胴上げして喜んだそうですが、その光景を目の当たりにした当時17歳の本田宗一郎は、自分達が優勝したことより衝撃的だったのかもしれません。

このことがトラウマとなり「生涯レースにこだわった」ともいわれています。何かと17歳が話題の昨今ですが、世界のホンダを創った男の17歳は、人生の原点を見出したときだったようです。

この優秀な純国産車「オートモ号」を世に送り出した白楊社は、1928年(昭和3年)に早くも会社をたたむことになります。原因は海外メーカーの本格的な進出でした。

1923年(大正12年)に起こった関東大震災で、鉄道など既存の交通網がマヒし、自動車の輸入が増加した経緯などから、日本市場に目をつけた海外メーカーは次々と日本国内に工場を設立します。

1925年(大正14年)にフォードが横浜に製造工場を設立。つづいて1927年(昭和2年)に今度はGMが大阪に工場を設立。

完成品をそのまま持ってくると税金?などが高くつくので、パーツを持ち込み、日本国内で組み立てる海外メーカー。

その強力な量産技術は、当時国内の自動車台数が3万台あまりだった市場に対して、いきなり年間1万台規模の生産をスタートさせます。まったく歯が立たなかった我らが「オートモ号」。

この経緯から軍部は「自動車は量産という形でしか発展することができない」として、1936年(昭和11年)に「自動車製造法」という法律を施行、海外メーカーを締め出します。

そして国産メーカーを募ってそれに補助を出すやり方で、国産メーカーの発展・育成を援助しました。このとき名乗りを上げたメーカーが現在のトヨタや日産の母体でした。

白楊社は消滅しましたが、その技術者たちは新しい国産メーカーへ引き継がれたといいます。

「日本人による日本人のためのクルマをつくりたい」。

この熱意が国産車誕生の原動力だったようです。そして、歴史のスタート当初から「安くていいものを」といったスローガンがあったように感じました。

来週は戦後、どのような経緯から世界でも1位2位を争う自動車大国ニッポンになったのか、その変遷をたどります。

(妄想)
私と付き合うようになってから(妄想ながら申し訳ありません)、クルマに詳しくなった三清さん。最近ではすれ違っただけで「アルファロメオ」という車名が飛び出すほど。

やばい。自分がクルマ好きのせいか、やたらクルマに詳しい女性を引く傾向にあります。クルマの話題ではなぜか盛り上がれない。運転が大好きなワンギャルもイマイチだったりします。これは単純に自分が運転したいだけですが。

女性に「クルマならべて何が楽しいの?」と冷ややかに言われることがカイカン。私はマゾでしょうか。

★次週の予定
20世紀の国産車・後編

★先週の「時代を駆ける名車~トヨタ・クラウン~」より
「クラウンは日本でしか売られていない」と書きましたが、香港ではタクシーの9割近くがクラウンとのことです。また、法人車が多いそうですが、ピカピカのクラウンが香港の街を走っているそうです。