TVKテレビの新車情報を斬る!

三本さんと三清さんの新車情報が大好きで長年メルマガを発行していた筆者のブログ

20世紀の国産車・後編 Vol.102 (2000/9/15)

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TVKテレビの 「新車情報2000」を斬る!』
         Vol.102 (2000/9/15) 毎週発行
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★9月11日放映
【20世紀の国産車・後編】

国立科学博物館にて6月4日まで開催されていた特別企画展「20世紀の国産車」。

先週に引き続き三本さんが取材へ行かれた模様から、後編では戦後、日本が自動車大国と呼ばれるまでになった歩みを見ていきます。今週も国立科学博物館の主任研究官の方が解説してくれました。

国産車が産声を上げ、順調に発展していくように思えた自動車産業も、第二次世界大戦に突入することで歴史に空白のときができてしまいます。

1945年(昭和20年)に終戦をむかえましたが、それから数年間はトラックやバスなど一部の製造が許されただけで、乗用車をつくることはできませんでした。

1947年(昭和22年)にようやく年間300台の乗用車が製造できることになり、そのとき登場したのがトヨペットSA型乗用車と、ダットサン・スタンダードセダンDA型でした。この2台が戦後の乗用車のさきがけとなりました。

斬新だったトヨペットSA型は、水冷直列4気筒SV、1リッター、出力は27hp、重量は1170kgでした。
http://www.toyota.co.jp/Museum/Tam/Car/Toyopetsedan-j/index-j.html

当時、SA型が試験走行をかねて東京の街を走るという機会があって、クルマ好きの三本さんはその様子を見学したそうです。

SA型を見て三本さんがブッタまげるくらい驚いたのは、「ラジオのアンテナが付いていたこと」。走りながらラジオが聴けるなんて国産車ではかなりイケてたようです。

戦後しばらくは、海外から部品を仕入れて国内で組み立てる「ノック・ダウン方式」と呼ばれる手法で、多くのクルマが誕生していた時期でもありました。

このようにまだ未成熟といえる自動車産業で業界を活気づかせる構想が通産省から発表されます。

1955年(昭和30年)に出された「国民車育成要綱」、通称「国民車構想」でした。

当時、名神高速道路建設などインフラ整備が続々計画され、それに見合う性能と、日本の国土にマッチする「国民車」の推奨基準を打ち出したもので、これに適合すれば国が補助金を出すというものでした。

「国民車」の目標スペックは、
○時速100キロ以上出る
○4名乗車または2名ならプラス100Kg
○時速60キロ一定走行で燃費は30km/L以上
○0-200m加速は15秒以内
○オーバーオール回帰10万キロ以上
○排気量350~500cc
○車両重量400kg以下
○価格25万円以下(月産2000台)

すごく官僚的な決め事ではありますが、明確な基準、目標であると同時に、国産車発展の初期段階においては有効な構想であったと評価されているようです。また、道路行政と二人三脚で足並みがそろっていたことも、産業の発展を後押しするかたちでした。

このような流れの中で様々なクルマが登場したわけですが、1958年(昭和33年)に誕生したのがスバル360。

そのスペックは強制空冷2サイクル並列2気筒360cc、出力は16hp、重量は385kg。価格は42万5千円でした。「決して安くなかった」と三本さん。確かに値段は「国民車」の基準をオーバーしています。

「ブレーキを踏むとお辞儀をし、アクセルを踏むと起き上がった。礼儀正しいクルマだった」そうで、その走りの性能はなんとなく分かる気がします。

「お辞儀」するクルマからファン・トゥ・ドライブするクルマへ。意識的に流れを変えるきっかけとなったのが、1962年(昭和37年)に完成した鈴鹿サーキット。サーキットの殿堂、日本のモータースポーツ原点の誕生です。

翌年の1963年(昭和38年)、第一回日本グランプリが開催されます。優勝したクルマは市場でも評価され、販売へ結びつくようになりました。

高速道路網が整備されるのと合わせて、走りを追求する高性能車が求められるようになります。

トヨペット・コロナ
ダットサン・ブルーバード
ホンダS500
いすゞ・ベレット
日野・コンテッサ
ダットサン・フェアレディ1500
ホンダN360

若者の憧れだったホンダN360は、「威勢がよかった。まるでスポーツカーみたいだった」とのこと。価格も当時で31万円から27万円くらいまで下がって、なんとか手の届く圏内にあったそうです。

1970年(昭和45年)、世界で最も厳しい排ガス規制「マスキー法」がアメリカで定められると、それを世界で最初にクリアできたのがホンダのCVCCエンジンでした。

それまで日本車など眼中なかった外国勢は、「マスキー法」をクリアする小さなクルマを前に、何かの間違いだろうと何度も測定し直したといいます。

この経緯からアメリカ市場において、日本車が高く評価されるきっかけとなります。

4年に一度という短いサイクルでモデルチェンジを繰り返しながら、欧米に追いつけ追い越せで突き進むモーレツ・ニッポン。

コスト史上主義で走りつづけた結果、身内では横並びと批判されることもあった国産車ですが、安くて優秀なクルマづくりに関してはピカイチではないでしょうか。

そして新しい技術へチャレンジして、商品化させる能力を秘めていると思います。

目標やテーマは時代とともに変っても、高品質を支える技術とノウハウは必須で、それを無視してかっこいいクルマも環境にやさしいクルマもつくれません。

小型車に特化してきた我が国は、次世代の大きな課題である「環境問題」に対応できる潜在能力を持っていると言えます。現にこの秋は、世界に先駆けて低燃費車が続々と発表されます。

三本さん達が言っていたように、日本は次世代のクルマ社会におけるリーダーとして、最も貢献できる位置にあるのではないでしょうか。

「日本のためにつくったクルマを、世界が求めている」と三本さん。今こそ国産車誕生の原点に立ち返ることが、次世代のクルマづくりに求められていることかもしれません。

(妄想)
学生時代、実家のクルマはカローラで、さすがにラジオは付いていましたがカーステは付いていませんでした。

バイト代で後付けしたカーステから松田聖子の「スコール」が流れたとき、三本さんが50年前SA型のアンテナを見たときくらい感動したものです。

デート用に編集したオリジナルテープで、いざ、三清さんとの気合のデートにのぞむ。

でも一生懸命つくったオリジナルテープは、デートの勝敗にはあまり関係なかったりします。

三清さんを門限までに無事送り、一人で帰る道中。すこしだけ田村正和っぽく気取ってしまう自分。

そのときに一人で聴くオリジナルテープ。最高です。

★次週の予定
ダイハツ・アトレー7